
- 2010年03月04日 (木) 18時30分
- 会員:500円
- 一般:1000円
- お問い合わせ: 東京日仏学院 (03)5206-2500
2006年/122分/35ミリ/カラー/日本語字幕付
出演: サビーヌ・アゼマ、ピエール・アルディティ、アンドレ・デュソリエ、ランベール・ウィルソン
フィルム提供:キュルチュールフランス
6人はそれぞれ他者を拒絶している。しかし、4日間の間に彼らの人生が交差していく。「私はアラン・アイクボーンの舞台がとても好きだ。滑稽で、風変わりで、時には残忍な側面があり、もう一方では人間の弱さへの同情、愛情がある」(アラン・レネ)。
※上映後、アラン・フレシェールによるレクチャーあり。
「アラン・レネの映画というのは、そのどれもが調和のとれた自給自足的な彼の体制、固有の法の下で進行し、展開する。彼は自らその法を選び取り、それに完全に——過剰に?——従っている。レネ映画におけるアトリエ的な作業方法には集団的なものがあり、自己管理が行き渡っているが(こういう話になると、レネは好んでクラナッハと彼のアトリエに言及する)、外側から眺めれば、それらはおそらく——間違って——ある感情へと行き着くことになる。すなわち、プロフェッショナルによる徹底した自己管理とは、自己満足を生み出すものと感じられるのだ。疵のない完璧な甲冑をまとった企画に仕える、そういった義務を果たしたのだという自己満足を生み出すのである。とはいえ、レネの映画にも不手際や大雑把、未完成といったものがいつか現れるはずだ。しかしそれは、あらかじめ計画された不手際であり、大雑把であり、未完成であって、映画作家から脚本家へと吹き込まれ、細部にわたるまで綿密に練り上げられ、だまし絵(トロンプルイユ)のように描かれたものである。それは、偽りの不手際であり、ハイパーリアリズム的な不手際の幻影にほかならない。不思議なことに、そしておそらく不当にも、いま問題にしている不整合の欠如こそが、レネの映画にみられる不整合で、弱さだと感じられている。少なくとも、彼の映画を愛する人々からはそう感じられている。なぜなら、彼の映画に関心を持たない人々や反対する人々に向かって、批評家たちはそのような議論を持ちかけたりはしないからである。しかし、『夜と霧』、『ヒロシマ・モナムール』、『去年マリエンバードで』、『ミュリエル』、『プロビデンス』といった作品にみられる、あの純粋な結晶の振動を止めることなどできないし、今後もずっとできないであろう。あれらの結晶は、まったく正確な、まったく純粋な音が極限的に張りつめるなかで、長々と震えつづけるのだ。レネ映画における欠陥の欠如——彼の限界はこの欠如にあると見なす人もいるが——とは、たえず視線を官能的に傷つけ、意識を不安に陥れるものだ。それは、偉大な映画作品がつけた傷痕である。映画芸術の歴史の中で、また、偉大な作品を見つめた人々の個人的な歴史の中で、そうした作品の占める場所を指し示す指標であり、症候となっている。」
アラン・フレシェール『アラン・レネの芸術』(ポンピドゥ・センター、1998年)より

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