アンスティチュ・フランセ東京(旧東京日仏学院)の歴史
東京日仏学院の誕生には、1924年設立の財団法人、日仏会館が深く関わっています。1949年、東京都に『語学学校』の開設を申請したのは、日仏会館でした。
翌50年1月20日、許可は下ります。
「昭和24年9月30日付申請の東京日仏学院設置のことを認可する。」
その署名は安井誠一郎東京都知事によるものでした。
1950年、かつて相馬男爵のものであった土地を飯田橋に購入。土地に隣接する小さな坂道は「逢坂」と呼ばれていますが、この名前の由来は、ひとりの娘が、亡き恋人とそこで逢瀬を重ねる夢を見たとの言い伝えからきています。
東京日仏学院の設計を担ったのは、ル・コルビュジエ門下の建築家、坂倉準三氏でした。工事は51年度中に行われ、同年9月14日、二重螺旋構造の塔を配した建物の引き渡しが完了します。ただ、この時点では、開校に必要な備品などは未整備の状態でした。
年が明けて52年1月16日、東京日仏学院は、高松宮殿下、吉田茂首相、デジャン駐日フランス大使臨席のもとで華々しく開校します。
それから約10年、学院は早くも拡張のときを迎え、61年、新館の増築で床面積は倍の広さとなります。設計はこのときも坂倉氏でした。映画上映、コンサー ト、講演会を可能とする『多目的』ホールが新設され、90年代半ばまで活用されることになります。装いを新たにした日仏学院が、高松宮ご夫妻臨席のもとで 『再』落成式を迎えたのは、61年4月のことでした。
60年、生徒数は2.839名に、受講者数は延べ5.000名に達します。図書館の蔵書̆は5.000点、上映できる映画総数も320タイトルを数えるようになります。
その後、学院は通信教育センター、書店、ブラスリーを構え、サービスを徐々に拡充して行くのです。
学院の歩みを年代順で追えば、次の四つに大別できるでしょう。(以下、敬称略)
- 創立から拡張に向けての1952~69年。 院長を務めたのは、順にジャン・ルキエ、オーギュスト・アングレス、そしてこの時期の代表ともいえるモーリス・パンゲです。当時、学院にとって『文化活 動』は、あくまで今日的な視点から見ればですが、二義的なものに過ぎませんでした。とはいえ、かのアンドレ・マルローが坂倉準三を伴って学院を訪れ、講演 を行ったのはアングレス在任中のことです。一方、ロラン・バルトが学院に滞在したのは、パンゲが院長の職にあるときです。バルトは、滞在中、パンゲとの対 話を通して、『表徴の帝国』の着想を得るのです。
- 1969年から81年にかけては安定のときといえるでしょう。院長はミシェル・ミダン、ジェラール・デルダル、クロード・ムトゥー、クロード・ロベール。この時期、学院の文化活動は一部後退の様相を見せますが、他方、演劇が重要な地位を占めるようになります。
- 1981年から89年にかけて、文化活動が本格化かつ多様化します。院長にはフランソワ・ロッシュとジャン・ペロルがいます。演劇、音楽、ダンス(舞踏)、造形美術を通して、文化プログラムに「斬新」のイメージが付与される時期です。
- 1989年から2001年にかけて、学院は改革、改修のときを迎えます。院 長はクリスチャン・サグリオ、マリー=クリスティーヌ・ドゥ・ナヴァセル。ダンス・パーティーや音楽祭、カクテル・パーティーの会場ともなり、学院の祝典 的イメージの定着に寄与してきた『多目的』ホールは、この時期、全面的な改修を受け、固定式の椅子を設けた映画専用館に生まれ変わります。同じく図書館 は、マルチメディア時代に相応しい『メディアテーク』に変貌を遂げます。また、監督や俳優を次々に招くことで、映画が文化活動の核となって行きます。
この半世紀のあいだに学院を訪れたフランス(関係)の文化人、アーティストを省みれば、その数の多さはもちろん、時に質の高さに、ただただ驚愕するばかりです。ここでそのすべてを列挙することは到底できません。各分野から主だった人物を紹介するに留めます。
まず文学関係ですが、 学院が言語を教授する場であることを斟酌すると、本来驚くには値しないのかもしれません。ニコラ・ブーヴィエ、ミシェル・ビュトール、オリヴィエ・カディ オ、マリーズ・コンデ、フロランス・ドゥレ、ジャン・エシュノーズ、アンドレ・マルロー、ドミニック・ノゲ、アメリー・ノートン、エリック・オルセナ、パ スカル・キニャール、ピエール=ジャン・レミ、ミシェル・リオ、アラン・ロブ=グリエ、ジャック・ルボー、ホルヘ・センプルン、ジャン=フィリップ・ トゥーサン、マルグリット・ユルスナール…
哲学者、社会学者、思想家、エッセイスト(ジャンル不問)を挙げると、 ロラン・バルト、ジャン・ボードリヤール、レジス・ドゥブレ、ジャック・デリダ、マルク・フェロ、ミシェル・フーコー、マルセル・ガブリエル、アルフレッ ド・グロセ、マルク・ギヨーム、クロード・レヴィ=ストロース、ベルナール=アンリ・レヴィ、カトリーヌ・ミエ、ジャン=リュック・ナンシー、イグナシ オ・ラモネ、マルク・ソテー、ミシェル・セール、ピエール・ヴィダル=ナケ…
『フランス映画祭横浜』が創設され、フランス映画のプロモーションを担う『ユニフランス』が学院内に事務所を構えたこともあって、90年代半ばからは、映画人が登場するようになります。ジャ ン=ユーグ・アングラード、ジャン=ジャック・ベネックス、ユーセフ・シャヒーン、ジャン=クロード・カリエール、ラウル・クタール、クレール・ドゥニ、 ジェラール・ドパルデュー、アルノー・デプレシャン、シャルロット・ゲンズブール、フィリップ・ガレル、イザベル・ユペール、セドリック・カーン、アン ナ・カリーナ、クロード・ランズマン、パトリス・ルコント、ジャン・レノ、イヴ・ロベール、ラウル・ルイーズ、ベルトラン・タヴェルニエ、アニエス・ヴァ ルダ、ランベール・ウィルソン…
彼らが学院の壇上に上がるとき、多くは高名な日本人をその対話の相手に選びました。50年にわたって日本に在り続け、とりわけ、首都、東京の地で、クロスカルチャーな交流を積み重ねてきた日仏学院だからこそといえるでしょう。最後に、その一部を紹介しておきます。
文学関係:安部公房、遠藤周作、池澤夏樹、野坂昭如、大江健三郎、大岡信、大岡昇平、芹沢光治良、白石かずこ、寺山修司、辻仁成、堤清二、吉増剛造…
映画関係:青山真治、市川崑、黒沢清、大島渚、吉田喜重…
美術関係:今井俊満、河口洋一郎、河口龍夫、川俣正、小清水漸、宮脇愛子、岡本太郎、楽吉左衛門、芹沢けい介、鴫剛、菅木志雄、高松次郎、田窪恭治、梅原龍三郎…
東京日仏学院院長(当時)
ジャック・スリユ
(在任2001年−2005年)
アンスティチュ・フランセ東京(旧東京日仏学院) 歴代館長(学院長)
1952年~現
- ジャン・ルキエ:1951~58年
- オーギュスト・アングレス:1958~63年
- モーリス・パンゲ:1963~69年
- ミシェル・ミダン:1969~72年
- ジェラール・デルダル:1972~74年
- クロード・ムトゥー:1974~77年
- クロード・ロベール:1977~81年
- フランソワ・ロッシュ:1981~84年
- ジャン・ペロル:1984~89年
- クリスチャン・サグリオ:1989~95年
- マリー=クリスティーヌ・ドゥ・ナヴァセル:1996~2001年
- ジャック・スリユ:2001~05年
- ブリュノ・アスレ:2005年~2008年
- ロベール・ラコンブ:2008年~12年
- ジャン=ジャック・ガルニエ:2012年~16年
- グザヴィエ・ゲラール:2016年~2019年
- カトリーヌ・ウンサモン:2019年~2021年
- フレデリック・ペニヤ:2022年9月着任
アンスティチュ・フランセ東京(旧東京日仏学院) 副館長(副学院長)または教務部長
1974年~現
- ノルベール・リプシュッツ:1974年10月~80年8月
- ジャン=ルイ・ルース:1980年9月~86年8月
- ピエール・マレ:1986年9月~87年5月
- アンドレ・シガノス:1987年9月~89年8月
- フランシス・メジエール:1989年9月~89年12月
- パトリス・ジュリアン:1990年1月~94年7月
- ギョーム・マルボ:1994年8月~94年9月
- フィリップ・ノルマン:1994年10月~97年8月
- クロード・ブルジョワ:1997年9月~2001年8月
- ロラン・トマ:2001年9月~03年8月
- ジャン=フィリップ・ルース:2003年9月~2008年8月
- パスカル・エストラード:2008年9月~2012年8月
- ヴァンサン・ボドワン:2012年9月~2014年8月
- シドニー・ラコム:2014年9月~2018年8月
- ダヴィッド・ジェルトゥ:2018年9月~2022年8月
- モード・ロネ:2022年9月~現在